SHIMABUN 株式会社シマブンコーポレーション

シマブン 110年の歴史 〜シマブンの歩み〜

創業から終戦・島文工業の誕生

  • 1909

    昭和42年

    島田商店創業

    島田文一郎(初代)が神戸製鋼所に出入りするようになり、払い下げ品の売買を開始。その後、島田商店と称した。
    当社創業の地の敏馬浜では、当時ボート競技が盛んに行われており、島田文一郎は官立神戸高等商業学校(現神戸大学)などの艇庫の管理を行っていたことが神戸製鋼所との縁となった。

    創業者 島田文一郎

  • 1916

    大正5年

    鉄屑の集荷を開始

    1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると日本の造船業は戦争特需に沸くが、材料となる鉄鋼が大幅に不足した。島田商店は西日本各地より鉄屑を集荷し、神戸製鋼所への納入を行った。

    初期の鉄屑運搬の様子

  • 1926

    大正15年

    神戸製鋼所の作業請負を開始

    1926年(大正15年)10月に神戸製鋼所の第1線材工場が完成。同時に島田商店は同工場におけるミスロール矯正作業の請負を開始した。

    ミスロール矯正作業

  • 1933

    昭和8年

    合名会社島文商店を設立

    島田文一郎(2代目)が個人商店であった島田商店を合名会社島文商店に改組。
    設立当初の事務所には「神戸製鋼所専属」を掲げていた。

    合名会社設立当初の事務所

  • 1944

    昭和19年

    島文工業合名会社に社名変更

    戦時中は配給販売制度(1938年)や指定商制度(1942年)により自由に鉄屑を扱うことができなくなり、請負作業に注力することとなる。
    終戦前年の1944年(昭和19年)4月に、島文工業合名会社への社名変更と定款目的変更を行った。

  • 1949

    昭和24年

    島文工業株式会社を設立

    戦後の鉄鋼需要が高まる中、1949年(昭和24年)8月9日に、島田五三郎が現在の法人格である島文工業株式会社を設立。
    設立当時の従業員は職員8名・工員79名で、事務所は現在の本社より東に百数十メートル行った南側にあった。

    旧本社社屋(1962年頃)

日本の高度成長とともに成長を遂げる

  • 1951

    昭和26年

    西倉庫(現本社土地)を取得

    朝鮮戦争の真っただ中であった1951年(昭和26年)3月に、現本社土地の大半にあたる1,800坪の土地を取得した。倒産した鉄工所が所有していた同地には、事務所と工場建屋、プレス機械が残っており、当時の本社の西に所在したため、「西倉庫」と呼ばれた。

    西倉庫(1960年代)

  • 1953

    昭和28年

    • 高砂出張所を開設

      1953年(昭和28年)6月、神戸製鋼所高砂工場(現高砂製作所)の開所に合わせて高砂出張所を開設。工場内のガス処理切断を受注した。構内にある事務所はわずか8坪の広さで、作業員も10名足らずであった。

    • 金属ラベルの製造を開始

      鉄屑営業と請負作業に次ぐ新しい事業として、線材のコイルに取り付ける金属ラベルの製造を開始。手動プレスでブリキ板からラベルを抜き取り、神戸製鋼所の社名を刻印するもので、西倉庫(現本社所在地)において製造を行っていた。

    • 大物ガス切断
    • 各種ネームプレート(1970年代)
  • 1954

    昭和29年

    姫路出張所を開設

    1954年(昭和29年)11月、姫路市で鉄屑業を営んでいる事業者より借地権と建物を購入し、姫路出張所を開設した。同出張所は播磨臨海工業地域における当社の拠点として発展していくこととなる。

    姫路出張所

  • 1955

    昭和30年

    呉出張所を開設

    1955年(昭和30年)3月、尼崎製鐵呉製鋼所(後の神戸製鋼所呉工場)に隣接する倉庫の一室に呉出張所を開設し、構内作業請負と鉄屑営業を開始した。1987年(昭和62年)に神戸製鋼所の撤退と共に構内作業請負は終了するが、鉄屑営業部門は引き続き呉に残り、西日本地区の鉄屑集積拠点として発展していくこととなる。

    呉出張所作業風景

    尼崎出張所を開設

    1955年(昭和30年)4月、尼崎製鋼所の構内作業請負を開始した。当初10名程度だった作業員は同年末には200人を超えるまでに増加。この後10年以上にわたり当社の作業請負部門の主力となった。

    尼崎出張所事務所

  • 1956

    昭和31年

    鋼材の取り扱いを開始

    1955年(昭和31年)9月、当社は鋼材市況の活況に刺激を受け、鋼板や丸棒などの一般鋼材の売買を開始した。鉄屑では長い経験と実績を持っていたが、鋼材販売は初の商売であり、軌道に乗るまでにはしばらく時間を要した。

    加古川工場での鋼材加工(1960年代)

  • 1959

    昭和34年

    創業50周年を迎える

    1959年(昭和34年)、当社は「島文工業株式会社」として法人設立10周年を迎えた。設立当初は従業員87名、売上高480万円だった当社も、10年後には従業員1,200名以上、売上高年間18億円という規模に成長していた。
    「設立10周年」を「創業40周年」と置き換えてこの年の記念行事は行われたが、現在から振り返ると、厳密には創業50周年であった。

    西倉庫(現本社所在地)で行われた創業40周年記念式典

  • 1960

    昭和35年

    ビレット疵取り作業の開始

    1959年(昭和34年)1月、神戸製鋼所初の銑鋼一貫工場である灘浜工場(現神戸製鉄所)が操業を始めると、急激な増産に対応するため、脇浜工場でのビレット疵取り作業を受注。
    また、1960年(昭和35年)9月には灘浜工場での請負作業も開始した。

    西倉庫で使われたスインググラインダー

  • 1961

    昭和36年

    曽根工場を建設

    当社の製缶事業は1960年(昭和35年)に鉄道車両用エアータンクやガードケーブル用支柱の製造請負からスタートした。1961年(昭和36年)11月には高砂市曽根町に製缶工場として曽根工場を建設。2,000坪の敷地に320坪の工場1棟、鉄筋コンクリート2階建ての事務所と、当社が一から建設した初めての本格的な工場であった。
    同工場では建設機械部品や産業機械などを製造請負。現在のシマブンエンジニアリングに繋がっていく。

    曽根工場

  • 1962

    昭和37年

    ドリル矯正作業請負を開始

    1962年(昭和37年)5月、工具専門工場として神戸製鋼所大久保西工場(現三菱マテリアル明石製作所)が開設すると、当社はドリルの矯正作業の請負を開始。1963年(昭和38年)8月には事業所を開設し、本格進出を行った。
    本事業は1965年(昭和40年)3月に有限会社明石工業所として分社化され、現在はシマブンテック株式会社となっている。

    明石工業所での作業風景

  • 1963

    昭和38年

    堺事務所を開設

    1963年(昭和38年)5月、尼崎製鐵堺製作所(現日鉄日新製鋼堺製造所)内に事務所を開設。薄板製品の梱包作業を開始した。

    堺事務所

  • 1967

    昭和42年

    昭和42年7月豪雨による本社被災

    1967年(昭和42年)7月9日に発生した昭和42年7月豪雨は、神戸市では昭和13年阪神大水害・昭和36年梅雨前線豪雨とともに「昭和の3大水害」と言われている。
    土砂とともに押し寄せた濁流により、本社事務所は1メートル以上も冠水。室内は泥まみれとなり多数の帳簿や書類、物品が散乱した。

    本社事務所前の様子

    御影工場を建設

    1966年(昭和41年)、神戸市東部第2工区に1,100坪の土地(現神戸工場中ヤード)を取得すると、西倉庫(現本社所在地)にあった鉄屑のプレス工場の移転を決定した。新工場は1967年(昭和42年)5月に着工し、同年9月に完成。プレス機をはじめとした機械設備は当時の新機種を導入し、生産性は飛躍的に向上した。旧工場とは桁違いの広さの建屋に「島文工業御影工場」の文字が大きく鮮やかに映えていた。

    御影工場

    新本社社屋(旧島文ビル)の建設

    国道43号線の整備による道路の拡張や、阪神高速3号神戸線の建設に伴い、当社は創業地からの立ち退きを余儀なくされる。また本社事務所は既に手狭となっていた。
    移転先は当時西倉庫と呼ばれていた現本社所在地に決定し、1967年(昭和42年)5月に着工。昭和42年7月豪雨による2ヶ月の工期遅延を経て、同年12月に竣工した。12月20日には創業55周年記念とともに披露宴が行われている。
    本社社屋は地上4階建て・延べ床面積2,100m2で冷暖房完備、食堂や娯楽室も備えていた。外壁には黄輝色のタイルを使い、屋上部分には「島文工業」の文字と社章を掲げており、国道に面した建物の中では、ひときわ目立ち、異彩を放っていた。
    この本社社屋は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災による被害を被るまで、変わりゆく本社地区の景観を見続けることになる。

    • 新本社社屋(旧島文ビル)
    • 当時の本社地区

加古川地区への進出・更なる発展へ

  • 1968

    昭和43年

    島文製作所の設立

    1968年(昭和43年)1月、製缶業の主力工場であった曽根工場を分離独立させ、株式会社島文製作所(現シマブンエンジニアリング株式会社)を設立した。作業部門を基本とした島文工業とは異なった、製缶業の企業形態・労働条件とすることが設立の目的であった。

    島文製作所となった曽根工場

    加古川支店の開設

    1968年(昭和43年)1月、神戸製鋼所の加古川厚板工場の稼働に備え、加古川支店を開設。同年4月の稼働と共に鋼塊のスカーフィング作業や製品の疵取り作業を開始した。
    同年11月には事務所を加古川市尾上町池田に移転した。

    開設当初の事務所(浜の宮)

    加古川工場の建設

    1968年(昭和43年)12月、かねてより取得していた加古川市尾上町池田の土地に、間口25メートル・奥行き50メートルの大型工場(スチールセンター)を建設(現池田工場A棟)。厚板工場から発生する端材の再加工を開始した。
    周囲には加古川製鉄所の建設に従事する会社の仮設事務所が並ぶ中、コバルトブルーの当社の新工場はひときわ鮮やかに映えていた。

    加古川工場

  • 1970

    昭和45年

    • 養田ヤードを開設

      1970年(昭和45年)3月、加古川支店から北西に数100メートルの場所に2,300坪の土地を取得し、野積みのヤードとした。これが現在の養田工場の始まりであった。

    • 加古川社宅を建設

      1970年(昭和45年)6月、加古川社宅第1棟が加古川市野口町古大内に完成した。周囲はまだ水田に囲まれており、5階建の社宅はひときわ目立つ存在だった。以後、1975年(昭和50年)までに3,000坪の土地に5棟200戸の社宅が完成した。
      その後、将来の社宅不足を見越して、野口町坂井に1,800坪の土地を更に取得している。

    • 養田ヤード
    • 加古川社宅

    六甲社宅を建設

    1970年(昭和45年)7月、六甲社宅第1棟が神戸市北区有野町唐櫃に完成した。以後、1973年(昭和48年)1月までに合計3棟130戸の社宅を建設した。

    六甲社宅

  • 1971

    昭和46年

    兵庫県青年洋上大学に従業員を派遣

    兵庫県の洋上大学は1971年(昭和46年)から始まったが、当社はその第1回兵庫県青年洋上大学から従業員の派遣を行っており、後に行われた近畿青年洋上大学にも派遣を行った。参加者にとっては大きな刺激となり、その多くは後に当社の中堅幹部として活躍している。

    兵庫県青年洋上大学の出航風景

  • 1972

    昭和47年

    加古川スチールセンターB・C棟を建設

    1969年(昭和44年)7月にA棟が完成した加古川スチールセンター(現池田工場)は、1971年(昭和46年)6月にB・C棟建設という大規模な増築工事を開始し、1972年(昭和47年)1月に完成した。これにより建屋の広さは3倍となり、処理能力は飛躍的に向上した。

    増築後の加古川スチールセンター

    ボウリング事業への進出・撤退

    1972年(昭和47年)10月、本社西隣にボウリング場「灘ダイヤモンドボウル」をオープンした。創業以来、地道な鉄の仕事を一筋にやってきた当社にとっては初めての鉄以外の事業への参入であった。
    しかしながら、ボウリングブームの当時は周辺に新規参入が相次いだことから熾烈な過当競争に巻き込まれ、ボウリングブームが下火になった1974年(昭和49年)12月、わずか2年あまりの営業で撤退することとなった。

    灘ダイヤモンドボウル

  • 1975

    昭和50年

    九州出張所を開設

    1975年(昭和50年)4月、福岡県北九州市小倉に営業所を開設した。これが当社の九州地区への本格的な進出となった。直前の3月には山陽新幹線が岡山から博多まで延伸しており、神戸と北九州間も日帰りが出来るようになっていた。

    島文第2ビルの完成と島文不動産設立

    灘ダイヤモンドボウルが閉鎖された半年後の1975年(昭和50年)5月、同建物は改装工事を経て「島文第2ビル」となった。同ビルは2~5階をオフィスとして賃貸し、1階には「レストランしまぶん」や「麻雀・ダイヤモンドクラブ」、ゴルフショップなどが開設された。
    1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災で全壊するまでの20年間、この建物は第2の人生を貸ビルとして全うすることになった。

    島文第2ビル

  • 1976

    昭和51年

    九州工場の開設

    1976年(昭和51年)7月、福岡県北九州市小倉北区西港町にヤードを取得し、営業を開始した。同ヤードは1,700m2の広さで、事務所と工場建屋を備えており、「九州工場」となった。
    主な取り扱い商品は伸鉄材であった。

    九州工場

    新在家工場の開設

    金属ラベルを製造する成品工場は本社の北側にあった。この成品工場を1976年(昭和51年)10月、工務店が資材倉庫として使っていた建物を改装して移転。
    所在地は神戸市東灘区御影塚町だが、最寄り駅が阪神電鉄新在家駅であるということから、新在家工場と呼ばれるようになった。

    新在家工場

    加古川スチールセンター事務所棟の完成

    1976年(昭和51年)12月、加古川スチールセンター(現池田工場)の事務所棟が完成した。新事務所は建坪210坪・鉄筋3階建てで、1階に営業部門、2階に作業部門が入り、3階は会議室として使われた。また、事務所棟と同時にD棟も竣工した。

    加古川スチールセンター事務所棟

    加古川スチールセンターE・F棟を建設

    1977年(昭和52年)2月、加古川スチールセンター(現池田工場)のE・F棟が竣工した。
    建屋面積はA~F棟合わせて7,400m2となり、クレーン、シャー、プレス、レベラーなどの多数の機械が配置されて、鋼材加工を行った。

    加古川スチールセンターE・F棟

  • 1977

    昭和52年

    御影第2ヤードの開設

    1977年(昭和52年)8月、御影工場の北西に数百メートル行ったところにある御影物揚場に御影第2ヤードを開設した(後の御影西ヤード、現ベンソニック所在地)。第2ヤードは南面に水深5メートル・長さ100メートルの岸壁を有し、1,500トン積みの船舶までが着岸可能で、物流コストの低減に大きな効果をもたらすことになった。
    1978年(昭和53年)10月には更なる合理化策として、当時最高クラスの750トンギロチンシャーを設置。大型機械による大量処理の時代が到来した。

    御影第2ヤード事務所

    島文第3ビルの完成

    1977年(昭和52年)10月、本社地区にあった成品工場の跡地に9階建て・延べ床面積5,600m2のオフィスビル「島文第3ビル」が完成した。
    高さ38メートルのこのビルは、当時神戸市灘区で最も高いビルだった。

    島文第3ビル

    呉支店の工場開設

    1955年(昭和30年)の開設以来、呉支店は製鉄所の構内に事務所を構えていたが、鉄屑の市況相場の激しい変動に対応するため、自前のヤードを持つこととなった。呉市吉浦地区にあった鉄工所を購入し、建屋の中にクレーン、プレス機、シャーを設置。1977年(昭和52年)12月より操業を開始した。場所は現在の呉工場より西側にあった。
    広さは400坪で、水深4メートル・長さ30メートル(300トン積み船舶接岸可能)の岸壁を備えていた。

    呉支店(旧呉工場)

  • 1978

    昭和52年

    オーベックファンの開業

    1978年(昭和53年)3月、前年に竣工した島文第3ビルの最上階の9階にフランス料理店「オーベックファン(Au Bec Fin)」を開店した。同店はインテリア設計を丹下健三氏と沖種郎氏が行った。

    オーベックファン客室

  • 1979

    昭和54年

    野口工場の開設

    1979年(昭和54年)10月、加古川市野口町長砂にあった鋼材問屋の倉庫を購入した。「野口工場」となった同工場は敷地面積8,200m2・建屋面積4,200m2で、材料置場とその切断作業場となった。

    野口工場

  • 1980

    昭和55年

    神南ハード工業を子会社化

    1980年(昭和55年)4月、神戸製鋼所加古川製鉄所で摩耗品の補修をする肉盛溶接事業を行っていた、神南ハード工業株式会社の全株式を取得し子会社化した。
    同社は後にシマブンエンジニアリングと合併することになるが、肉盛溶接事業は現在もシマブンエンジニアリングの主力事業となっている。

    神南ハード工業の肉盛作業

    尾上工場を建設

    島文製作所では受注が急増しており、狭あいになっていた曽根工場だけでは対応できなくなっていた。1980年(昭和55年)6月、子会社化した神南ハード工業の尾上の敷地内に工場を建設。曽根工場では建設機械の各種フレーム類を、尾上工場では油圧ショベルのバケット類と製鉄設備を製造するようになり、分業体制が確立した。

    島文製作所尾上工場

    島文第3ビル別館の完成

    本社地区の島文第3ビルの北側には岩屋寮という、1969年(昭和44年)3月竣工の独身寮があった。独身寮の需要減とオフィスの需要増に伴い、オフィスビルへの改築を実施。
    外壁タイルの色調や窓の形を島文第3ビルと揃え、同ビルと各階を渡り廊下で接続する「島文第3ビル別館」として、1980年(昭和55年)10月に竣工した。
    本社ビル、第2ビル、第3ビル、そしてこの第3ビル別館を合わせると、延べ床面積は実に2万m2に達し、神戸市灘区内で当時最大のビル街となった。

    本社地区のビル群

    御影東ヤードの開設

    1970年代後半、全国で年間2,000万トンを超える鉄屑大量発生の時代を迎えると、御影工場の敷地は手狭となっていた。1980年(昭和55年)12月、神戸市東灘区御影浜町の鋼材センターの土地(現神戸工場土地)を購入し、直ちにヤードとして使用することとなった。この新しいヤードを「東ヤード」とし、従来の第1ヤードを「中ヤード」、第2ヤードを「西ヤード」と称するようになった。

    御影東ヤード

  • 1982

    昭和57年

    播磨工場の開設

    1980年(昭和55年)6月の島文製作所の尾上工場建設に伴い、元々同地にあった神南ハード工業の工場は手狭となっていた。そこで1982年(昭和57年)3月、加古郡播磨町新島に神南ハード工業の播磨工場を建設した。新工場は明るいクリームカラーの建物で、広さは1,400m2であった。内部には旋盤などを置き、機械加工と検査などを行った。

    神南ハード工業播磨工場

    御影新工場(現神戸工場)の建設

    1980年(昭和55年)12月に購入した東ヤードには、護岸の補修が完了すると同時に工場建設を行うこととなり、1982年(昭和57年)11月に完成した(現神戸工場)。
    ヤードの東寄りには幅・奥行きとも50メートルの、当社の工場カラーであるコバルトブルーの工場が建ち、その南寄りに業界有数の1,250トンのギロチンシャー(富士車輌製)が設置された。
    この新工場は1,500トン級の外航船が接岸可能な専用岸壁を持つ一方、切断能力1,250トンという国内最大級のギロチンシャーを設置した最新鋭の工場として、注目されることとなった。

    御影新工場

  • 1983

    昭和58年

    呉工場の移転・拡張

    1977年(昭和52年)に神戸製鋼所呉工場から移転した当社の呉工場は、集荷量の増加により早くも手狭となっていた。そこで200m南側のところにあった造船業者の遊休地を購入した(現呉工場)。敷地面積は14,000m2で、当社所有の鉄屑ヤードでは当時最大であった。
    購入後は老朽化していた建物の撤去や、御影東ヤードと同様の1,250トンギロチンシャーの設置、事務所棟の建設などの整備が行われ、1983年(昭和58年)8月に完成した。
    翌年の1984年(昭和59年)には当社営業部門の年間取扱量は日本で初めて100万トンの大台を突破した。

    移転・拡張した呉工場

  • 1984

    昭和59年

    尼崎支店の閉鎖

    神戸製鋼所の加古川製鉄所への移管により尼崎製鉄所の生産設備は1970年代後半には次々と休止となり、1984年(昭和59年)1月には神戸製鉄所の尼崎工場となっていた。
    そして同年9月末をもって、当社の構内作業の請負業務も終了した。最盛期には500人近くが働いていた尼崎支店の作業員も、この頃にはわずか20人を残すのみとなっていた。

    尼崎支店社屋

    脇浜作業課の廃止

    神戸製鋼所脇浜地区においても合理化は推進され、古い工場は次々と休止されていた。スカーフィングやチッピング、研磨といった請負作業を担当していた当社の神戸作業部脇浜作業課も1984年12月をもって廃止されることとなった。

    1980年代の脇浜地区作業風景

  • 1985

    昭和60年

    ランスの製造請負を開始

    ランスとは製鉄所の溶銑・溶鋼処理の際、溶銑輸送炉および転炉の中に挿入し撹拌する、耐火物を付けた大きな金属棒のことで、ランスから注入されるガスにより、溶銑は不純物の除去、溶鋼は高品質化を図ることが出来る。当社は神戸製鋼所より委託を受け、加古川工場池田ヤード(現池田工場)D棟において、ランス製造を行うこととなった。

    ランス修理風景

  • 1989

    平成元年

    島文不動産からアイランドフューチャーコーポレーションへ

    1989年(平成元年)4月、関係会社である島文不動産の社名を「アイランドフューチャーコーポレーション株式会社」へ変更した。この社名には、島(Island)文の未来(Future)を担うという意気が込められていた。

    島文第2ビルの和風レストランしまぶん

    六甲アイランド工場の開設

    建材部は御影東ヤード(現神戸工場)の東端の建屋を使い、プレス作業や製缶作業を行っていたが、受注量の増加に伴い十分な工場スペースが確保できていなかった。その移転先として、1989年(平成元年)7月に六甲アイランド工場が完成。当時はまだ六甲アイランドに他企業の工場は完成しておらず、当社が一番乗りとなった。
    六甲アイランド工場では道路安全設備や落石防止柵、海洋製品などを製造し、業績はすこぶる順調であった。しかしながら1995年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災において工場は液状化現象による深刻な被害を受け、1996年(平成8年)6月には建材部は廃止。1998年(平成10年)9月をもって六甲アイランド工場は閉鎖された。

    六甲アイランド工場

  • 1990

    平成2年

    株式会社島文の誕生と関係会社の改称

    1989年(平成元年)10月、新神戸オリエンタルホテル(現ANAクラウンプラザホテル神戸)において行われた創業80周年記念式典において、当社および関係会社の社名変更が発表された。1990年(平成2年)1月より「島文工業株式会社」は「株式会社島文」に、「株式会社島文製作所」は「シマブンエンジニアリング株式会社」に、「株式会社明石工業所」は「シマブンテック株式会社」に、「株式会社丸島金属工業所」は「シマブンメタル株式会社」にそれぞれ社名変更された。

    創業80周年記念式典

    シマブンエンジニアリングと神南ハード工業を
    合併

    シマブンエンジニアリングは1989年(平成元年)3月に本社所在地を曽根工場から尾上工場に移し、同年8月には神戸事務所を閉鎖して曽根工場に集約した。1990年(平成2年)3月には業容拡大を目指して硬化肉盛溶接事業を展開している神南ハード工業を吸収合併。播磨工場とした。

    シマブンエンジニアリング播磨工場

    養田工場建屋の完成

    薄板の保管場所としては姫路市飾磨の倉庫を借りていたが、経費の無駄、時間のロス、運搬の手間、販売面における柔軟度不足など、数々の問題を抱えていた。そこでスクラップ加工処理場として使用されていた養田ヤードに自社倉庫建設の計画が浮上した。
    1990年(平成2年)6月に完成した工場は2,800m2の建屋で、工場内には25トンと15トンの天井クレーンをそれぞれ1基と厚板専用シャー1基を設置。製品在庫能力は6,200トンが可能となった。

    養田工場

    ベンソニック設立

    1990年(平成2年)10月、健康食品の製造会社として、株式会社ベンソニックを設立した。
    ベンソニックとは「Venture(革新的事業)」「sonic(音速の)」「nick(うまく好機をとらえる)」という言葉を合成させた造語である。

  • 1992

    平成4年

    島文第5ビルの完成

    1992年(平成4年)1月、神戸市灘区岩屋中町にあった丸島工業の寮の跡に、賃貸用オフィスとして、島文第5ビルが完成した。しかし時代はバブル崩壊の時期でもあり、テナント探しに苦戦することになった。

    島文第5ビル(現在)

震災を乗り越え創業100周年へ

  • 1995

    平成7年

    • 阪神・淡路大震災

      1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源地とするマグニチュード7.2の激震が神戸の街を襲った。死者・行方不明者は6,438人、全壊家屋は10万棟以上という甚大な被害をもたらしたこの地震において、シマブングループも未曾有の被害を受けることとなった。
      最も被害の大きかった本社地区では島文第3ビルを除く、本社ビル、島文第2ビル、島文第3ビル別館、みぬめ酒販が全壊。神戸市内の御影工場(現神戸工場)や新在家工場、六甲アイランド工場、石屋川工場、六甲社宅が大きな被害を受けたほか、播磨工場や加古川の各工場、曽根工場といった県内各地にも被害は及び、全社の被害総額は70億円超にのぼった。ただ幸いだったのは、従業員の中に多少の負傷者はいたものの、家族を含めて死者が発生しなかったことであった。しかし、全従業員の安否確認には約1ヶ月を要した。

    • 本社地区の解体

      震災当日、本社に集まった従業員は数名だったが、目の前にある信じがたい光景に茫然自失となった。翌日には比較的被害の少なかった加古川・高砂地区の労使が一体となって、トラックに救援物資を満載して、通常1時間で済む道を7~8時間かけて応援に駆けつけた。本社ビルからの重要書類や什器備品の搬出は、応援部隊の協力を得て約2週間で完了し、2月1日からは解体工事が開始。3月末には島文第3ビルを残した全てのビルが撤去された。
      なお、第3ビルの補修工事は4月末までに完了した。

    • 立体駐車場
    • 島文第2ビル
    • 本社ビル内部
    • 本社地区解体の様子

    神戸製鋼所の復旧作業に携わる

    震災における神戸製鋼所の被害も甚大なものであり、機会損失等を含めたその被害総額は企業として最大となった。当社はその復興において神戸本社地区のビル解体と神戸製鉄所の復旧作業に携わった。特に高炉と転炉がストップした神戸製鉄所では、転炉の鍋に溜まった鉄の塊を取り出す作業において、大物ガス切断の技が生かされた。この他にも神戸製鋼グループ各社と連携しながら様々な復旧作業に携わり、神戸製鉄所の高炉は震災から2ヶ月半後の4月2日に再稼働を果たした。

    神戸製鉄所第3高炉再火入れ式
    (提供:神戸市)

    震災屑集荷による復興活動

    阪神・淡路大震災の被災地では膨大なスクラップが発生し、その処理が問題となったが、当社は地元企業として、率先してそのスクラップの回収と処理を引き受けた。御影東ヤードの処理能力は通常月間7,000トンだったが、定時内での処理だけでは追いつかず、休日を返上し、他工場からも応援要員を動員するなどして、月間1万トン余りまで能力を引き上げた。それでも処理できないスクラップは海上輸送して呉工場まで運ばれた。
    大量のスクラップが短期間に入荷したため、既存の御影西・中・東ヤードでは収めることができず、第2工区内の約1万坪の遊休地を賃借。積み上げられた未処理の震災屑は約10数万トンに達し、その処理には約2年の歳月を要した。

    • 震災屑の積み上げられたスクラップヤード

    シマブンメタルの事業撤退

    丸島金属工業改めシマブンメタルは建築用異形棒鋼(伸鉄丸棒)の生産と販売を主業務としており、高度経済成長期の建築ブーム時には最盛を極めていた。
    しかし1989年(平成元年)の年産2万8,000トンをピークに年々生産量は減少し、1994年(平成6年)には年産1万2,000トンにまで減少。
    当社が経営権を取得した1974年(昭和49年)10月から約21年が経過した1995年(平成7年)6月、シマブンメタルの歴史の幕は下ろされた。

    シマブンメタル

    加古川シマブンビルの完成

    本社ビルが阪神・淡路大震災で倒壊したため、島文第3ビル2階フロアに総務部だけを残し、他部署は各支店へと分散せざるを得ない状況となっていた。また、従来より加古川地区にも神戸の本社に匹敵する活動拠点を作る構想もあったため、代替ビル建設構想がにわかに実現することとなった。
    5階建て、延べ床面積2,600m2のこのビルは「加古川シマブンビル」と名付けられ、1995年(平成7年)12月に完成した。加古川シマブンビルは2003年(平成15年)7月に新本社ビルが完成・竣工するまでの7年強、本社機能としての役割を果たした。

    加古川シマブンビル

    サービスエリア事業を開始

    アイランドフューチャーコーポレーションは1995年(平成7年)4月に舞鶴自動車道西紀サービスエリア上り線での営業を開始した。また、1999年(平成11年)6月には阪神高速3号神戸線京橋パーキングエリアの営業を開始した。
    同社については後の1999年(平成11年)10月に、飲食部門を主体とする「イフコープ株式会社」(2016年(平成28年)6月解散)と、サービスエリアの運営を主体とする「アイランドフューチャーコーポレーション株式会社」に分割されることとなった。

    西紀サービスエリア上り線

  • 1998

    平成10年

    加古川独身寮の建設

    1998年(平成10年)1月、技能を継承する若い世代の従業員に対する福利厚生策の一環として、古大内の2号棟と3号棟を解体した跡地に新しい独身寮が建設された。なお、古大内については後に5号棟を残して1号棟と4号棟も解体して増築・整備され、2008年(平成20年)4月には現在の形となっている。
    鉄骨造り6階建て・延べ床面積4,600m2(増築後)のこの寮は、約19m2のワンルームタイプの部屋が155室あり、会議室や食堂、大浴場、154台が置ける駐車場など、設備も充実している。

    増築後の若竹寮(2008年)

    シマブンエンジニアリングの播磨工場への集約

    シマブンエンジニアリングは当社グループの合理化策の一環として、曽根工場と尾上工場の播磨工場への移転を行った。1998年(平成10年)3月、播磨工場内に事務所が完成すると、総務部と技術部が移転。本社所在地も尾上工場から播磨工場に変更した。
    播磨工場への集約後、尾上工場は当社の尾上工場となった。従来A、B、C、Dの4棟があったが、C棟とD棟を解体撤去して門型クレーン1基を設置し、厚板やビレットの切断を行った。また、曽根工場は売却された。

    曽根工場

    野口工場の閉鎖

    野口工場はコイル・厚板置き場、当金・ラベル加工場、冷却材加工場などとして利用されていたが、加古川地区の工場集約と再編成により、池田工場、養田工場、尾上工場への移管が決定。1998年(平成10年)4月に全ての移管が完了し、同6月に売却された。

    野口工場

  • 1999

    平成11年

    エスビーパッケージを設立

    1999年(平成11年)4月、当社は神戸製鋼所加古川製鉄所の冷延コイル梱包を専門に行う会社「エスビーパッケージ株式会社」を設立した。これにより約120名の従業員が当社グループに加わることになった。

    エスビーパッケージの作業風景

  • 2001

    平成13年

    九州工場の閉鎖

    九州工場は伸鉄材の加工販売を行っていたが、取引先である伸鉄メーカー数社が工場閉鎖に陥ったため、伸鉄材の加工処理および販売業務をあきらめざるを得なかった。その後、1997年(平成9年)には鋼板用ヤードを設置して鋼材の加工販売に注力したが、鉄鋼不況のあおりを受け、わずか1年後の1998年(平成10年)には鋼板加工業務からも撤退。
    2001年(平成13年)11月に、工場は現状のまま売却した。
    2002年(平成14年)2月、残った九州営業室は、福岡県北九州市小倉北区のKMMビル別館に移転した。

    九州営業室が移転した小倉興産KMMビル別館

    新本社ビルの着工

    2001年(平成13年)10月、新本社ビルの起工式が旧本社跡地で行われた。阪神・淡路大震災から6年が経過しており、本社ビルの建設は当社の悲願となっていた。
    新本社はまずオフィス棟を建て、追って島文第3ビルの場所に商業棟を建てる方法を採用した。震災を乗り越えた島文第3ビルは取り壊すこととなった。
    震災の教訓から、最新鋭の制振装置を備えたブレーキダンパーの採用をはじめ、十分すぎるほどの耐震対策を行った。また、島文本社ビル跡地の南は震災再開発事業により「HAT神戸」として生まれ変わっており、HAT神戸の玄関口を象徴するような、ランドマークとなるオフィスビルを目指すこととなった。

    建設中の新本社ビル

  • 2003

    平成15年

    クレーン等性能検査の代行機関に指定

    2003年(平成15年)4月、シマブンエンジニアリングは厚生労働大臣の指定を受け、クレーン等性能検査代行業務を行うこととなった。クレーン等性能検査は2000年(平成12年)に政府の規制緩和により民間企業も参入可能となったもので、厚生労働省の指導を受けながら、2003年(平成15年)4月にクレーンと移動式クレーンの、同年10月にはエレベータ、デリックおよびゴンドラの性能検査代行機関としての指定を受けた。
    その後、2004年(平成16年)には、指定制度から登録制度への移行に伴い、登録性能検査機関として登録された。現在はシマブンエンジニアリングから分社化されたシマブンクレーン検査株式会社が、本検査業務を行っている。

    クレーン等性能検査の様子

    新本社ビルオフィスタワーの完成

    2003年(平成15年)7月、念願の新本社ビルが竣工した。地上16階地下1階建て、延べ床面積7,500m2のオフィスタワーは、当社の震災復興のシンボルとなった。
    大ホールのある4階部分にある「メガトラス」は耐震性能を満たすだけでなく、デザイン的なポイントとなった。また、外壁はアルゼンチン産の御影石(グリスペルラ)の総石張りとし、重厚さを演出している。
    オフィスタワーの竣工後、同年9月に島文第3ビルの取り壊しが行われ、商業棟と駐車場棟の建設が始まった。

    新本社ビル(オフィスタワー)

    株式会社シマブンコーポレーションに社名変更

    新しい本社ビルの建設を機会に、1990年(平成2年)の創業80周年時に名付けた社名「株式会社島文」を変更することとなった。スマートな本社ビルにふさわしい社名として、2003年(平成15年)8月1日をもって、「株式会社シマブンコーポレーション」に変更された。また、同時に社章の変更も行われることとなった。

    初披露された新しい社旗

    姫路工場の閉鎖

    2003年(平成15年)9月、営業事業部原料部姫路営業室および姫路工場を廃止し、加古川営業室を設置した。これは、加古川シマブンビルの建設や尾上ヤードの開設等により、加古川地区の事務所やスクラップヤードが充実してきたことから、原料部門を同地区に集約させようというものであった。姫路工場は解体され、その土地は貸主に返却された。

    姫路工場

  • 2004

    平成16年

    東京営業室の開設

    2004年(平成16年)4月、念願であった東京営業室を東京都中央区日本橋に開設した。主な業務は、スクラップ原料の取扱と解体工事であった。
    当社は1952年(昭和27年)に東京出張所を開設したが、わずか1年足らずで撤退しており、50年ぶりの東京への事業所開設となった。

    市川ヤード

    シマブンエンジニアリングが中国へ進出

    2004年(平成16年)5月、シマブンエンジニアリングはバケットを製造する海外現地法人として「杭州島文機械有限公司」を中華人民共和国浙江省杭州市に設立した。
    当初は工場を借りての創業であったが、世界的な需要拡大によって生産能力が限界に達したため、自前の工場を建設することとなった。そして2008年(平成20年)6月、敷地面積8,000m2の工場が完成し、本格的な生産を開始した。

    杭州島文機械有限公司の開所式

    新本社ビル商業棟の完成

    2004年(平成16年)11月、オフィスタワー北側に商業棟ならびに駐車場棟が完成し、新本社ビルとしてグランドオープンを果たした。
    商業棟は地上4階建て、内部は3層吹き抜け全面ガラス張りの建物で、「BBプラザ」と名付けられた。テナントには島文第3ビルにあった「オーベックファン」をはじめとする各種レストランやクリニックなどが入ることとなった。
    また、翌年の2005年(平成17年)10月には、本社ビル東側にBBプラザ別館がオープンした。

    • 完成した商業棟(BBプラザ)
  • 2005

    平成17年

    自動車リサイクル事業への進出・撤退

    2005年(平成17年)1月から施行された自動車リサイクル法を受け、御影工場(現神戸工場)西側にELV工場を建設して自動車リサイクル事業を開始した。当初は需要が高く順調であったが、需要の落ち込みにより、2008年(平成20年)12月をもって事業を休止することとなった。
    その後もプレス機を使用した破砕業のみを継続していたが、2018年(平成30年)の台風21号の高潮被害によってプレス機が水没。費用面で修復は困難と判断し、自動車リサイクル事業から完全に撤退することとなった。

    ELV工場での作業風景

    宅配水製造事業への進出

    ベンソニックは2004年(平成16年)5月に御影西ヤードに工場を立ち上げ、機能水のペットボトル製造を開始していた。2005年(平成17年)7月には12リットルのボトルタンクに充填する装置を新たに導入。クリクラブランドの宅配水製造を開始した。

    ベンソニック御影工場

    呉工場の桟橋を増築

    2005年(平成17年)10月、呉工場に新たに増築した桟橋が完成した。幅40メートルの桟橋によって最大で5,000トン級の運搬船の接岸が可能となり、直接海外への輸出も可能となった。

    増築された呉工場の桟橋

  • 2006

    平成18年

    神戸岩屋社宅の建設

    2006年(平成18年)3月、本社から東へ500mほど離れた神戸市灘区岩屋中町1丁目に、当社の神戸岩屋社宅が完成した。1970年(昭和45年)に建設された六甲社宅の老朽化に伴い新築したもので、六甲社宅はその長い役目を終え、同年12月に解体された。

    神戸岩屋社宅

  • 2008

    平成20年

    養田工場の拡張

    2006年(平成18年)9月、養田工場東側の隣接地15,000m2を購入した。この土地を利用して、工場棟増築と厚生棟の建設、ストックヤードの整備を実施し、2008年(平成20年)8月に完成した。
    これにより養田工場における建屋の延べ床面積は6,000m2、敷地面積は22,000m2となった。

    24トン積みの大型フォークリフト

    シマブンエンジニアリングマシナリーを設立

    2008年(平成20年)9月、シマブンエンジニアリングは小野市で機械加工業を営む山名鉄工から事業譲渡を受け、シマブンエンジニアリングマシナリー株式会社を設立した。
    シマブンエンジニアリング自体も大型製缶物の塗装設備を増設しており、シマブンエンジニアリングマシナリーの機械加工技術と設備の取得によって、一貫生産体制を確立。取引先へさらなるコストパフォーマンスの高い商品を提供できるようになった。

    シマブンエンジニアリングマシナリー本社工場

「とりあえずやってみよか」の精神で
次の100年へ向けて挑戦を続ける

  • 2009

    平成21年

    BBプラザ美術館の開館

    2009年(平成21年)、当社は創業100周年記念事業の一環として、本社商業棟内に美術館を開館することとなった。この美術館は商業棟にちなみに「BBプラザ美術館」と名付けられ、同年7月7日に開館式が行われた。
    BBプラザ美術館は「暮らしの中にアートを」という理念のもと、地元作家に密着した企画展や収蔵品展などを行っており、地域の芸術文化振興に努めている。

     

    BBプラザ美術館開館式

  • 2010

    平成22年

    「とりあえずやってみよか」をスローガンに

    1966年(昭和41年)より、当社は年間スローガンを定め、その発表を年初に行っている。2010年(平成22年)1月、社長の木谷謙介が年頭の辞において、「とりあえずやってみよか」を年度スローガンとして初めて発表した。その中では「今やっている事に疑問を持ち、失敗を恐れずやってみる、新しい事に挑戦すると言う気持ちを全員が共有し、あれは駄目、これもムリと否定から入るのではなく、『とりあえずやってみよか』の姿勢で常に前向きに業務の改善・変革に取組んで下さい。」と説明している。
    「とりあえずやってみよか」は、現在は当社のコーポレートスローガンとして掲げられており、毎年1回、各部門における取組みを発表する、「とりあえずやってみよか活動事例発表会」を行っている。

    「とりあえずやってみよか」活動事例発表会

    東京支社を開設

    2010年(平成22年)5月、東京都中央区京橋の八重洲ダイビル2階に東京支社を開設した。東京支社はシマブングループの関東地区本格進出に伴う業務増大に対応するため、東京地区の機能強化(広報・情報収集)を目的としており、東京地区に事務所を開設していた営業事業部原料部 東京営業室やシマブンエンジニアリング(現シマブンクレーン検査)などが同居することとなった。

    東京支社が入居する八重洲ダイビル

  • 2011

    平成23年

    シマブンシステムサービスを設立

    2011年(平成23年)7月、システムの専門人材の確保と技能向上を目的として「システムサービス株式会社」を設立した。同社は2018年(平成30年)9月に「シマブンオフィスサポート株式会社」に社名変更を行っている。

  • 2012

    平成24年

    宮地サルベージを子会社化

    2012年(平成24年)4月、香川県仲多度郡多度津町で船舶解体業を営む、株式会社宮地サルベージがシマブングループの一員となった。これにより、鉄リサイクルと船舶解体のそれぞれの分野において様々なシナジー効果が生まれることとなった。
    宮地サルベージは1926年(昭和元年)に宮地商店解撤部として創業した歴史ある会社で、当社と同様に神戸を発祥の地としている。船舶解体においてはその技術と実績が高く評価されており、2012年(平成24年)7月から2013年(平成25年)4月にかけて元青函連絡船の「羊蹄丸」(総トン数8,311トン)の解体を行い、同年11月に国内初・世界で3社目となる船舶リサイクル施設認証を受けた。

    • 宮地サルベージ
    • 羊蹄丸解体の様子
  • 2015

    平成27年

    小倉工場を開設

    2015年(平成27年)10月、福岡県北九州市で九州地方の鉄鋼メーカー向けの金属ラベル等の製造を行う土庵工業所より事業譲渡を受け、同社の本社工場を生産事業部神戸事業所小倉工場とした。
    同工場は九州地方におけるラベル等販売の営業拠点としても重要な役割を果たしている。

    小倉工場

    シマブンエンジニアリング播磨第二工場を開設

    2015年(平成27年)11月、加古郡播磨町新島のシマブンエンジニアリング本社工場(播磨工場)南東に播磨第二工場が完成した。
    敷地面積13,000m2・建屋面積6,000m2の同工場はABCの3棟構成となっており、大型製缶および機械加設備を備えるA棟では、超大型移動式クレーン向け部品の製造が可能となった。また、BC棟はバケット専用工場として溶接・機械加工から塗装までの一貫生産ラインを確立。90メートルの奥行きを活用し、生産性が大きく向上した。

    シマブンエンジニアリング 播磨第二工場

  • 2018

    平成30年

    地域未来牽引企業に選定

    2018年(平成30年)12月、当社は経済産業省より「地域未来牽引企業」に選定された。同制度は、地域経済への影響力が大きく、成長性が見込まれるとともに、地域経済のバリューチェーンの中心的な担い手、および担い手候補である企業を「地域未来牽引企業」として選定するものである。
    2019(平成31年)3月に開催された「地域未来牽引企業サミットin新潟」において、世耕経済産業大臣(当時)より認定証の授与を受けた。

    • 認定証授与の様子
  • 2019

    令和元年

    丸島工業とエスビーパッケージを合併して社名をシマブンスチールパートナーズに変更

    1960年(昭和35年)設立の丸島工業と1999年(平成11年)設立のエスビーパッケージは、共に製鉄所構内において作業請負を行う当社の子会社であった。
    2019年(令和元年)10月1日、当社が創業110周年を迎えた同日に、両社を合併して「シマブンスチールパートナーズ株式会社」に社名変更。新たな歴史のスタートを切った。